1954(昭29)年6月5日:東京都主催にて大森競走場が開催される
しかし
成績振るわず1955(昭30)年7月23日、都議会財務委員会にて都営開催の中止が決定される
大森競走場の施設会社である大森水上レクレーション株式会社は
東京都に代わる施行者として府中市と交渉する
1953(昭28)京王閣競輪、1955(昭30)府中競艇(のちの多摩川競走場)と運営している府中市は
当時不振を極めていた競艇事業の見透しと
施行条件等を充分考慮して検討が加えられ
大森競艇の実態調査を行なうと共に施行については慎重を期した
ちなみに
目黒競馬場から譲り受けた東京競馬場が東京競馬倶楽部主催にて府中の地で開催されたのは1933(昭8)年
その後
1937(昭12)年:東京競馬倶楽部が解散し、日本競馬会>東京競馬場
1954年(昭和29)9月:国より競馬の業務を引き継ぎ、現在の日本中央競馬会が施行する
当時、関東における競艇界は関西に比し劣勢で公営競技のなかで競艇の占める分野は微々たるものであった
当時の理事(府中市長小林茂一郎)はモーターボート競走の指定市申請に踏み切ることを決定し
1955(昭30)年6月の府中市議会第二回定例会に提案し議決され
翌7月
市議会全員協議会において公営事業実行特別委員会を構成
委員10名を選任して
当市が命運をかけた競艇事業について積極的に推進することになった
地元大井競馬、大井オートとの同時開催は極力避ける
無料バスの運行
サービス(抽選券の交付)・宣伝等に工夫をし
1955(昭30)年9月20日:府中市営第一回モーターボート競走が大森競走場にて開催された
第一節(20〜25日)、第二節(27〜10月2日)の12日間開催
今開催入場者 25,749人(一日平均 2,146人)
売上高 63,512,200円(一日平均 5,292,683円)
積極的な努力を積み重ねたが
モーター老朽化、競走水面へのゴミ流入によるエンスト事故多発など
興味半減のレースも続き
競艇事業の前途は多難であった
1957(昭32)年:施設会社である大森水上レクレーション株式会社は同地内埋立て第二期工事と併設して
地下1,000mから湧き出す温泉のさく泉に成功し
温泉会館を建設して、遊園地、植物園等を開設
従来の競艇場名(大森競走場)を平和島競艇場と改名し
同時に施設会社名も株式会社平和嶋と変更した
ちなみに
大森水上レクリエーション株式会社の社長山名義高氏は堤康次郎氏の部下で武蔵野鉄道の元社長
昭和14年頃から埋め立てられたこの地は
戦争中は捕虜収容所、戦後は戦犯収容所として使われたので人々は
戦争の悲惨さを忘れようとして
いつのころからか”平和島”と呼ぶようになり駅名も”沢田”から昭和36年9月1日
現在の”平和島”に変更された
東京都大田区平和島1−1−1
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